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自己紹介-開業前-

僕の家は、3階建ての店舗付き住宅です。

僕が退職した頃までは、1階の店舗で父親が自営業を営んでいました。

しかし、その父は、僕が富士通を退職した年に、がんで亡くなりました。

そのため、我が家の1階店舗は、空き店舗となっていました。

で、この空き店舗は、ちょっと変わった作りで、トイレ等がなかったりして、他人には貸出できない店舗でありました。

そのため、僕は、「この空き店舗で何か商売ができないかなぁ?」考えていましたが、当初、いい案がなくて、この空き店舗は放置状態となっていました。


広さは20㎡くらいですから、コンビニをやるには狭過ぎますし、父親が営んでいたクリーニング業は、この地域で過当競争状態となっており、得策ではないように思われました。

そうしている内に、ある日、ひらめいたのです。

「そうだ。ここでカウンセリングルームを開こう」と。
カウンセリングルームなら、十分な広さですし、大学時代、心理学を学び、面白い学問だと思っていましたし、成績も「優」を頂いていましたので、良い案のように思われました。

しかし、大学時代に、心理学を学んだといっても、何の資格も持っておりませんでしたので、まず、勉強して資格を取り、お客さんに信頼されるようにならなければならないと考えました。

何の専門教育も受けていない無資格のカウンセラーに、悩み話を聞いて貰おうなどという人は、まずいないでしょうから。

そこで、ネットで、通信教育でカウンセリング関連の勉強ができる所を探して、僕は勉強を始めました。

その時、以下のような内容を学びました。

①心理学基礎概論
②カウンセリング理論
③カウンセリング実践事例
④精神医学の基礎知識
⑤交流分析・論理療法
⑥認知療法・認知行動療法
⑦フォーカシング・内観療法
⑧ソリューション・フォーキャストアプローチ
⑨芸術療法
そして、JADP(日本能力開発推進協会)にて資格試験を受け、合格。「メンタル心理カウンセラー」という資格と、それよりワンランク上の「上級心理カウンセラー」の資格を取得したのでした。

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資格を取得した僕は、一階店舗をクリーニング屋からカウンセリングルームに改装する作業に着手しました。

この時、プロのデザイナーである妹の絶大な協力があったのですが、その話は、また次回。

tag : 自己紹介 開業

自己紹介-富士通時代6.終わりの始まり-

今振り返ると、世がITバブルにわき、インターネットが急速に普及していった西暦2000年頃、富士通も、その絶頂期にあったのではないかと僕には思えます。

企業の株価は、世間がその企業にどれくらい期待しているかという期待値を映す鏡でもありますが、当時の富士通の株価は最高5,000円でありました。

これが、どれくらい凄いことかと言うと、富士通株の最低売買単位は1000株でしたから、富士通の株を買いたいと思ったら、最低でも、@5,000円×1000株=5,000,000円が必要だったのです。

一部のお金持ちや機関投資家でなければ手が出せないような高額な株でありました。

ちなみに、今の富士通の株価は7,000円くらいですが、最低売買単位は100株ですので、70万円あれば売買可能です。

どれだけ、当時期待値が大きかったかがわかろうかというものです。

しかし、それも長くは続きませんでした。

インターネットの将来性が否定された訳ではないのですが、ITバブルが崩壊し、世界的にIT不況となりました。

富士通も最大の試練の時期を迎えました。

富士通は2001年と2002年に合計5000億円もの大赤字を出すことになったのです。

瀕死の状態であったと言ってもよいでしょう。

そして2万人に及ぶ大リストラが行われました。
社員の10人に一人が首を切られました。
ただ、首切りの対象は、海外関連会社の方が多く、僕はリストラ対象にはなりませんでした。

それでも、会社の体質は大きく変わりました。

平成生れの方には、想像もつかないかもしれませんが、昭和の高度成長期の日本には「終身雇用」と「年功序列」というものがありました。

「終身雇用」とは、いったん会社に就職したら、よほどのことがない限り、首を切られるようなことはなく、定年まで安定した生活を送ることができるという雇用制度のことです。

「年功序列」とは、年をとるに従って、その能力とはあまり関係なく、誰でも昇進していくという制度のことです。もちろん昇進すれば給料も上がります。

さらに、この時代には「ベースアップ」というものがあり、そもそも給料の「ベース」が毎年上がって行きましたので、例え昇進しなくても、給料は上がる時代だったのです。
これらの制度に支えられ、日本は急速に経済成長を遂げました。

今では考えられないこれらの制度ですが、経済が右肩上がりに成長しており、会社が収益もその規模もどんどん大きく成長していた時代には、このような制度が維持可能なのでありました。

しかし、やがて日本の高度成長期も終わり、多くの会社で右肩上がりの成長は望めなくなってゆくようになります。

企業は「社内失業者」と呼ばれるような余剰人員を抱え、また事業規模の拡大もなくなったため、ポスト不足となり、誰でも年功序列で昇進できるような人事制度を維持することはできなくなったのです。
その中では、「終身雇用」は崩壊し、リストラという首切りが横行するようになりました。

もちろん年功序列もなくなり、優れた業績を残したもののみが出世する、当たり前といえば当たり前の「能力主義」の社会へと変わっていきました。

富士通もいつの頃からか変貌してゆきました。

年功序列は影をひそめ、能力主義に変わっていきました。

残業に対する考え方も変わりました。

残業になってしまうのは、仕事がのろいからであり、能力があり、効率的に作業を進める優秀な社員は、残業は少ないのである。
そんな考え方に変わっていきました。

また、労働そのものに対する対価ではなく、労働の結果生れた「成果」に報いるという「成果主義」と「目標管理制度」が導入されるようになりました。

昔の「年功序列」の考え方は、経済が右肩上がりだったからこそ維持できていたのであり、経済的な成長が止まった日本においては、もはや破綻したのでありました。

僕は、リストラにこそ遭遇しませんでしたが、かといって「成果主義」と「目標管理制度」にはなじめませんでした。

だんだんと会社生活に息苦しさを感じるようになり、第二の人生を考えることが多くなってゆきました。

これが、僕の会社生活の「終わりの始まり」でありました。

-次回に続く-


tag : 富士通 自己紹介

自己紹介-富士通時代5.別れ-

僕たちの結婚生活は、しばらくは順調でした。

僕は、家事などはやりませんでしたが、奥さんは、文句を言うこともありませんでした。

夜、寝る時は手をつないだまま眠り、出勤も駅まで、手をつないで行く。

週末は、一緒に海ですごす。
そんな仲良し夫婦でした。

そんな順調な結婚生活が、どこか、おかしくなってきたのは、結婚して1年くらいたった頃だったように記憶しています。

いつの間にか、手をつないだまま眠ることも、手をつないで駅まで行くこともなくなりました。
家の中には、なんとなく重い空気が漂うようになってきていました。

理由は、いまだに、よくわかりません。

僕は家事はやりませんでしたが、浮気もしませんでしたし、暴力をふるったこともありませんでした。もちろん、アルコール依存でもありませんでしたし、借金もありませんでした。

それでも、二人の間には、どことなく重い空気が漂い、ある時から、奥さんが家に帰って来なくなりました。

戻ってくるよう、奥さんを何回も説得しましたが、徒労に終わりました。

ちなみに、奥さんに他に男ができたという訳でもないようでした。

僕は関係修復の努力を続けましたが、最終的には、離婚せざる得ないという結論に至りました。

このようにして、僕たちの結婚生活は約3年という短い期間で終わったのでした。


話は、変わりますが、僕の現在の職業であるカウンセラーには「共感力」が大変重要です。相談者さんの立場に立ち、相談者さんの気持ちに寄り添い、共感しなければ、よいカウンセリングはできません。

従って、カウンセラーには、人生経験が豊富であることが求められます。
結婚したことのないカウンセラーには、結婚の幸せ感は、共感をもって理解することはできませんし、離婚したことのないカウンセラーには、離婚の寂しさ、やるせなさは理解することができません。

そういう意味では、僕は、結婚も離婚も経験しましたので、貴重な経験だったと言えると思います。


離婚しても、僕は、相変わらず、富士通で働いていましたが、離婚してしばらくたった頃、世の中で大きな出来事が起こりました。

それは、「ITバブルの崩壊」です。
国内では、IT大手である富士通にも変革の波は押し寄せ、それは、やがて僕の人生にも影響するようになります。

何が起こったのか?

その辺の話は、また次回。


tag : 離婚 自己紹介

自己紹介ー富士通時代4.新婚生活-

前回お書きしましたように、僕は、海で知り合った女性と約半年の交際期間を経て結婚しました。

大学時代の彼女とは2年以上付き合っていたのに結婚せず、海で知り合った彼女とは交際半年で結婚するという結果となりました。

結婚って、愛の深さも重要ですが、それだけでなく、縁とかその時の経済状況とか、色々なものが影響するのだろうなぁと思います。


結婚式は、横浜のチャペルで挙げました。

なぜ、新居も横浜、挙式も横浜、と横浜続きだったかというと、僕は当時、東京大田区に住んでおり、彼女は横須賀の人だったので、お互いに平等に中間地点ということで、横浜となったのです。
彼女は、そういうこと口出ししませんでしたが、僕は、そういう考えで、横浜を選んでいました。

新婚旅行はサイパンに行きました。

僕たち二人は、お互い海が好きで、JET SKIを愛していましたので、サイパンは最適な旅行先でした。
サイパンの海は、どこまでも青く透きとおっていました。

その海を、僕たちは、JET SKIで何時間も走りまわり、サイパンの海を満喫したのでした。

新婚旅行から帰り、横浜での、「正式な」新婚生活が始まりました。

共働きで、奥さんは設計事務所に勤め、僕は引き続き富士通に勤務していました。

週末は、僕は、土曜日の休日出勤も多かったですが、日曜日には海に行き、レースの練習をしていました。

奥さんも、結婚後、船舶免許を取得し、JET SKI のレースに参戦するようになりました。

このようにして、ウィークデイはお互い仕事、週末は海でJET SKIという生活が、しばらくの間、続きました。

結婚の翌年の夏には、JET仲間十数人と、伊豆へ合宿に行ったりもしました。

今、思えば、この時期が、彼女との生活で、一番楽しく、充実していた時期だったのだろうと思います。

しかし、その楽しく、充実した日々も、それほど長くは続かず、悲しい別れが訪れます。
その辺の話は、また次回書きます。



tag : 自己紹介 新婚生活

自己紹介-富士通時代-2-

僕が富士通入社した年が、ATMのモデルチャンジの年だったことは前回書きました。

その頃の部長の方針で、その新ATMのデモを全国で行うことになりました。
僕はATM担当として、全国で、新ATMの実演デモ(実機を操作したり、機能の説明をしたりする)を行うこととなりました。
実演デモの仕事は、一度、操作と説明内容及び機能説明を覚えてしまえば、あとはどこへ行っても同じことの繰り返しですから、楽な仕事でした。

富士通の拠点は日本中にありますから、僕は実演デモ要員として、全国を飛び回る生活が始まりました。

北は北海道から南は沖縄まで、日本全国をまわりました。
この時行った都道府県は、北海道、青森、岩手、宮城、群馬、富山、大阪、名古屋、岐阜、広島、島根、高知、福岡、佐賀、熊本、長崎、宮崎などだったように記憶しています。

まだ「社内接待」などというものがまかり通っていた時代で、行く先々で、現地の営業さんの歓迎を受け、また新ATMのお客さんの評判も上々だったものでしたから、この時期、とても楽しかったです。

ある時、富山からの出張を終え、翌日、本社に出社したところ、先輩が、

「おい、富山はどうだった?」と聞いてきました。

僕が、「カニがメチャ美味しかったです!」と答えると

先輩が、「そうじゃねぇよ。お客の反応はどうだったんだよ?って聞いているんだよ!」なんてこともありました。

実演デモの出張が多く、「出張手当」をたくさん頂いたため、給料には、ほとんで手をつけずに生活できちゃった、なんて日々がしばらく続きました。
そんなこんなで、入社当初~10年目くらいまでは、仕事はハードだったものの、やりがいもあり、充実した会社員生活を送っていました。


プライベートでは、入社2年目の頃、小型船舶4級の免許を取得し、JET SKI(水上バイク)を購入しました。
週末には、江ノ島や横須賀あたりの海まで繰り出して、海を走りまわっていました。

そして、JET SKIを購入してから3年目に、JET SKIのレースに参戦するようになりました。

そして、このことが、結婚につながるのですが、そのことは、また次回。


テーマ : メンタルヘルス
ジャンル : 心と身体

tag : 富士通 自己紹介

自己紹介-富士通時代1-

富士通に僕が入社した当時、その本社は、「丸ノ内の不夜城」と呼ばれていました。

業績が急激に伸びており、それに伴い、残業も多く、徹夜する社員も少なくなかったので、真夜中になっても灯かりが消えないことから、そう呼ばれるようになったのです。

その「丸ノ内の不夜城」の「業種端末機販売推進部」というところに僕は配属されました。

「業種端末機販売推進部」と聞いて、どういう機種を扱う部署だかわかる方は、ほとんどいないと思いますが、具体的には、ATMやPOSの販売促進を担当する部署でした。
ATM担当の第一推進課とPOS担当の第二推進課があり、僕は、第一推進課に配属されました。
富士通がATMの開発・販売を行っていたことは、一般には、あまり知られていないかと思いますが、ATMの世界では、当時(約30年前)富士通がトップシェアだったのです。
30年前の事とはいえ、一般には知られていないATMの価格をここで曝露してしまうと困る方も出てくるかと思いますので、詳細は書きませんが、当時のATMはかなり高価でした。1台で高級自動車が1台買えるくらいでした。

それが、銀行のオンライン化に伴い、飛ぶように売れていました。

当時は利益率も良く、「富士通の利益は南多摩(ATMの開発拠点)の利益」と呼ばれていた時代もあったのです。
売れているということは、それに伴う業務も多忙ということです。
ちなみに、僕が配属された「販売推進部」という部署では、カタログを作ったり、デモや展示会を行ったり、市場調査(市場価格やシェアなど)をしたり、販売価格の設定や値引き商談の決裁業務などを担当していました。
残業も多く、月60時間くらいの残業は普通でした。
近年は、残業が多い企業はブラック企業などと呼ばれ、白い目で見られますが、その頃は、そういう風潮はありませんでした。
むしろ、残業代が貰えるので、残業Welcomeという雰囲気さえありました。

当時の富士通では、例え、残業が100時間超えていようとも残業代が満額支給されていましたので、忙しい人は、残業代が本給を超えて給料2倍なんてことも珍しくありませんでした。
僕も130時間残業して、新人なのに30万円以上給料を貰ったこともありました。

当時、多忙ではありましたが、Excelもメールもない時代で、業務が今に比べると、著しく非効率的に行われていたのも、その一因でありました。

電卓を使って、手書きで表を作成したものの、縦合計と横合計が合わず、1時間も2時間もかけて計算し直しなんてことも珍しくなかったです。
今なら、Excelで10分で終わってしまう作業ですよね(笑)
僕が配属された年は、ちょうどATMのモデルチェンジの年(10年に一回)だったので、その年、僕は、色々と貴重な体験をしました。
少し長くなってきましたので、その辺の話は、また次回。


テーマ : メンタルヘルス
ジャンル : 心と身体

tag : 富士通 自己紹介

自己紹介-大学時代-

早稲田大学の法学部に進学した僕は、かなり、のびのびとした日々を過ごしていました。

授業には、あまり出ず、テニスサークルのサークル活動などを楽しんでいました。
大学2年生の時には、車の免許をとり、ドライブにもよく行きました。
大学1年の時、一般教養で、心理学を学びました。

私は、それまで、あまり学問を「おもしろい」と感じたことはなかったのですが、心理学については、「おもしろい」と感じました。
自分がおもしろいと興味を感じられる学問については、自然と成績も良くなるもので、心理学については「優」を頂きました。
この経験が30年後の僕の職業に影響を与えることとなるのですが、その時は、そんなことは夢にも思っていませんでした。
大学1年生の終わり頃、彼女ができて、2年以上お付き合いしたのですが、彼女が、だんだん結婚を意識するようになり、「結婚式は最低でもホテルオークラで」などと言うので、自然と距離をおくようになり、最終的にはお別れしました。
当時は学生で、まだ収入もないのに、何百万も結婚式にお金を使うなどという金銭感覚についていけなかったのです。

大学4年生の春~夏にかけて就職活動をしました。

今はカウンセラーをやっている僕ですが、当時は普通に会社員になるつもりでした。

文系の学生には給料の高い銀行・商社が人気でしたが、僕は、銀行員には興味がなかったので、商社・メーカーを中心に就職活動しました。

ですが、僕は営業は向いていないようで、営業職の集団である商社には採用してもらえませんでした。
今、思うと、確かに営業には向いていないと思うので、商社には採用されなくて良かったなぁと思います。

2~3ヶ月ほど就職活動した結果、富士通、同和鉱業、大和証券、日興証券、山一証券などから内定を頂きました。
平成生れの方にはわからないと思いますが、当時は、後に「バブル」と呼ばれるようになる時代で、日経平均株価が今の2倍近くまで上がっていた時代です。
証券会社は、活気にあふれていて、とても勢いがありました。
なので、採用も早稲田クラスの学校なら、ほぼ間違いないない状態でした。

でも、いろいろ考えた末、僕は高校の野球部の先輩が在籍していた富士通を選びました。
まだ、インターネットはおろか、携帯電話もない時代でしたが、コンピューターは、将来、必ず伸びると思ったからです。

大学2年の時必修科目だった英米法が苦手で、若干卒業があやうい場面もあったのですが、無事、留年することもなく卒業した僕は富士通で働き始めました。

そこでの出来事はまた次回。


tag : 自己紹介 大学時代

自己紹介-高校時代-

早稲田大学高等学院に進学した僕は、軟式野球部に入部しました。

僕の父は、元プロ野球選手で、僕もその血を引き継いだのか、野球を見るのもプレイするのも大好きだったのです。

硬式野球部もありましたが、練習がキツそうだったので、軟式野球部を選んだのですが、それでも練習はハードでした。

練習は日曜と月曜は休みでしたが、夏休みなどは、ほぼ毎日練習で、午後練習の日などは13時~19時頃まで、ひたすらボールを追いかけていました。

僕は父親譲りの強肩で、ポジションはキャッチャーとなりました。

2年生の秋からレギュラーとなり、打順は常に4番を打っていました。

高校3年生の夏の最後の大会では、4番キャッチャーとして、打率3割、盗塁阻止率100%を記録し、都大会で、BEST4まで進みました。
都大会の準決勝で、修徳学園に敗れ、僕の高校野球生活は引退となりました。

なぜ、「高校時代」の話で、野球のことばかり書くのかというと、勉強は、ほとんどしていなかったので、勉強については書くことがないからです(笑)


早稲田大学高等学院は、原則として、全員早稲田大学への進学が保証されているので、入学したとたん、勉強をしなくなる生徒がたくさんいます。

僕も、その口で、高校に入学以降、ほとんど勉強せずに、ひたすら野球ばかりしていました。

勉強をしなかったのですが、周りの生徒もそういう生徒が多いせいか、成績は、クラスの中では、中くらいでした。
ですが、数学と物理、化学はかなり苦手でした。
反対に、英語や現代国語などは、ほとんど勉強せずとも試験を突破していました。
なので、大学進学にあたっては、文系を選びました。
当時、文系志望の場合、一番人気があったのは政治経済学部で、その次が法学部、その次は商学部でした。
教育学部や文学部はあまり人気がなくて、お好みで、という感じでした。
僕は、成績が中くらいでしたから、政治経済学部には入れず、法学部に進みました。
今、思うに、政治経済学部に進んだ場合には、数学の知識が必要だと思うので、法学部に進んで良かったと思います。
大学時代の話は次回、書きたいと思います。


tag : 自己紹介 高校時代 早稲田大学高等学院

自己紹介-生れてから中学時代まで-

ブログを始めるにあたって、まずは自己紹介をしておきたいと思います。

私は、1960年代に東京で生まれました。
生まれた時は3,000グラムくらいの普通の赤ちゃんだったようです。
その後、川崎市に引っ越し、小学校は、川崎市中原区の中原小学校に入学しました。
小学校2年生の時に、東京都大田区に引っ越し、大田区立久が原小学校に転校となりました。
この時、お友達とのお別れを経験し、子供にとって、転校というのは、大きな心の負担となることを経験しました。
新しい小学校で友達ができるまでは、とても寂しかったのを覚えています。

小学校6年生の時、中学受験を経験しました。

小学校5年生から、あの有名な開成中学校を目標に受験勉強を始め、小学校6年生の時には、1日6時間以上の猛勉強をしましたが、あえなく不合格。なので、中学校は、普通の区立中学に進みました。

中学生の頃の成績は良かったです。
中学2年までに、中学校の勉強を全て終えて、中三の頃には、高校生の参考書で勉強していました。

高校受験は、武蔵高校、早稲田大学高等学院、都立高校の3つの学校を受験しました。

結果は、武蔵高校は不合格、早稲田大学高等学院と都立高校は合格でした。

よく早稲田出身だと告げると「エリートですね」とか「すごいですね」とか言われることがあるのですが、当時、事前の模擬テストで早稲田大学高等学院については、合格率80%以上と出ていましたので、僕自身は、早稲田は「すべり止め」だと思っていました。

高校受験が、このような結果でしたので、僕は早稲田大学高等学院に進みました。
ちなみに、今は、早稲田大学高等学院は、練馬と本庄の二つがありますが、当時は練馬だけでした。
そして、早稲田大学高等学院からは、原則、全員前提条件なしに、早稲田大学への入学が保証されていました。

この時、あえて都立高校に進んで、東大を目指すのか、早稲田で納得するのかという2つの選択肢がありましたが、当時の僕は、「東大は大変だろうなぁ~、早稲田で十分だよ」と思い、早稲田大学高等学院に進学しました。

この早稲田大学高等学院という高校は、本当に自由な校風で、実に居心地が良かったです。
異常に厳しい校則のある学校の話をたまに聞くことがありますが、早稲田大学高等学院には、校則らしい校則はなかったように記憶しています。

先生は「うるさいことは言わないけど、法律だけは守ってね」という感じでした。
私立校にありがちな服装の取り決めとか、バイト制限とか、バイク通学を認めないとかいう制限もありませんでした。
それどころか、酒やタバコさえ、厳しい取り締まりはありませんでした。

校舎の屋上でダバコを吸ってる生徒がいましたが、先生は見回りに来ることもなく、清掃の方が、定期的に吸い殻を掃除しているって感でした。
(40年前の話です。最近の現状はわかりませんよ 笑)
それでも、ほぼ生徒全員が節度を保って学校生活を送っていました。
学校は、生徒の自主性に任せており、学生も、常識の範囲内で、自由な学生生活を送っている、そんな感じでした。
このブログをお読みになる方の中には、受験生の父兄の方もいらっしゃると思います。なので、一言申し上げておきますが、このような自由な校風ですので、自制心のない子供はこの学校に入るべきではありません。
悪いことをしても、学校は注意してくれないというか、法を犯せば、逮捕されるだけ、って感じですから、自分で自分をコントロールできない子は、この学校には進まない方がいいと思います。
実際、ごく少数ですが、自由過ぎて人生の道を踏み外した同級生もいました。
少し、話がそれましたが、この自由な高校で、僕が、どんな高校生活を送ったのか、少し、話が、長くなったので、それは、次回、書きたいと思います。



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tag : 自己紹介 早稲田

ブログ始めます

こんにちは。

僕は、神奈川県川崎市でカウンセラーをやってる平山靖高と言います。
今日から、このブログを始めることとしました。
日々のカウンセリングで感じたことなどをメインに、その他、日頃感じた様々なことなどを書いていきたいと思います。
できるだけマメに更新していきたいと思いますので、どうぞ、よろしくお願い致します。



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tag : 自己紹介

プロフィール

「こころケア」カウンセラー平山靖高

Author:「こころケア」カウンセラー平山靖高
神奈川県川崎市中原区でカウンセラーをやってる平山靖高といいます。
1960年代の生れで、1980年代に早稲田大学を卒業後、富士通に就職。2014年に富士通を退職し、2年間バイトをしながら、カンセリングや心理学を学び、2016年7月にカウンセリングルーム「こころケア」を開業し、現在に至る。
離婚経験があり、現在は独身。ちなみに子供はいません。
詳しい自己紹介をブログ本文に載せているので、是非ご参照下さい。


ビール,音楽(最近のお気に入りは米津玄師のLemon),韓国旅行が好きです。

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